Day3-5. 「ヒーローシティ・スラバヤ」

 短い滞在の間に、ビエンナーレの運営スタッフがスラバヤのツアーを計画してくれた。契約書のことと言い、こんなに準備してくれる運営は僕の経験ではあまりない。短いインドネシア滞在の間に、どうにか形にしたいという気持ちが沸いた。今日のツアーを通して歴史や宗教など、ジャワ島の根っこの部分に少し触れることができた気がする。

市街地へドライブ
matahari(太陽)という名の店

 スタッフ4名と一緒に、車でスラバヤ市内へ向かった。アートフェアのような展示がスラバヤで行われており、そこへ案内してくれるという。中心街へ向かうと、大きなショッピングモールがいくつもあり、かなり栄えている印象だ。ロッテマートなどもあり、ソウルと変わらない印象を受けた。道中に「matahari」という看板が付いたショッピングモールがあり、このあたりで一番大きいショッピングモールで、matahariは太陽という意味があると教えてくれた1 。しかし、ムスリムは太陽が好きだからあちこちに同じ名前の店があるらしい。

植民地時代の建物で行われていた展覧会
ケボンロジョ郵便局(Kantor Pos Kebonrojo)
ケボンロジョ郵便局(Kantor Pos Kebonrojo)
画像:パブリックドメイン(出典:Wikimedia Commons)

 展示会場の付近は、植民地時代のオランダの建築物が残されているエリアだった。そして、会場となっている建物もオランダが建てたケボンロジョ郵便局(Kantor Pos Kebonrojo)という元郵便局だ2。Art Subsという展示で、154名の若手インドネシア作家300点以上を紹介するアートフェアが開催されていた3。今後も継続されるのか不明だが、今年から始まった大規模な展示だそうだ。

インドネシアで展覧会を初めて見る

 会場に到着したが、招待券のVIPチケットでは2人しか入場できないことを知り「入場料が高くて払いたくないから、2人で行ってきて」と言われた。残りの3人は外で待つらしい。後で調べてみると、入場料は10万ルピーで日本円で千円くらいだった。1日働いて千円くらいの日当だと聞いたので、日本人の感覚では1万円近い入場料になる4。確かにかなり高い。

 展示は、ペインティングが中心だが、コレクティブの活動を紹介する展示もあり、いくつか面白そうな作品もあった。

Art Subsの展示風景(ケボンロジョ郵便局内)
Art Subsの展示風景(ケボンロジョ郵便局内)

 展示を見終わった後、外にいた3人と合流。敷地内に併設されているカフェで、僕たちが見終わるまで1時間以上待ってくれていた。中の展示はどうだったかと聞かれ、作品が多すぎて疲れたと答えた。一緒に展示を見て回った人も、感想をインドネシア語で話している。中に入れなかった3人がいる手前、高い金を払ってまで見なくて良かったと言っているようだった。

植民地時代の話とヒーローシティ

 展示会場の建物がオランダの植民地時代のものだったことから、植民地時代の話を聞けた。スラバヤは、ヒーローシティと呼ばれているという話だ。

 インドネシアにはポルトガル、イギリス、オランダ、日本などが占領したり、植民地としてきた歴史がある。特にオランダは1602年から1949年までの約350年もの間、インドネシアを植民地としていた。日本はその途中1942年から1945年にインドネシアを植民地としている。1945年に日本が降伏した後、オランダがインドネシアを再び植民地にしようと試みたことで、インドネシア独立戦争が起こり、1949年にようやく独立となった5。1945年に、その独立のための事件が起こったのがスラバヤだったため、今でもスラバヤがヒーローシティだと言われている6

植民地時代と独立の象徴 ホテルマジャパヒト

 オランダの国旗7は赤白青だが、青には祖国への忠誠心という意味がある。忠誠心を示す青の部分を破き、独立をアピールした事件がスラバヤで起こったことが、ヒーローシティと今でも言われている所以になっている8。それで、今のインドネシアの国旗9が赤と白になったというわけだ10。この事件が起こったのが、今もホテルとして経営されているホテルマジャパヒトだ。

 ホテルマジャパヒトは、植民地時代にはホテルオラニエ11、ホテルヤマトという名前で営業されていた。インドネシアを支配していたオランダや日本に由来する名前を冠したホテルだったのだ。そのため今では、植民地時代や独立革命の記憶を残す象徴的な建物になっている。今の名前であるマジャパヒトは、東ジャワにあったインドネシア最後のヒンドゥー教国家からとっている。

Hotel Majapahitのエントランス
Hotel Majapahitのエントランス
Hotel Majapahitのロビーにある絵
Hotel Majapahitのロビーにある絵

 ホテルのロビーを見学すると、独立の時の様子を伝える絵画が展示されていた。フランスの市民革命を伝える絵画12も国旗を持っているが、それと似た構図になっている。

ムスリムとお酒

 ホテルマジャパヒト等を見学した後、付近の繁華街を散策した。この時に、一緒に回ってくれていた男性スタッフに、お酒について聞いてみた。「あなたはムスリムだが、お酒を飲めるのか。」と聞くと、お酒が好きだと言う。それで、滞在先のSERBUK KAYUセルブガユへ戻る途中、お酒を購入しに行ってくれることになった。ジャワ島は、ムスリムが97%以上の社会なので13、お酒はどこにでもあるわけではない。車でわざわざ寄り道をして買いに行ってくれた。

 酒屋は入口に鍵がかかっており、中の女性店員が開けてくれた。店内は、お洒落なバーのようなディスプレイで、外観からは想像が付かなかった。韓国のチャミスルや、日本の獺祭なども取り扱われており、想像していた雰囲気とは違う。そして、インドネシアで作られている赤ワインと白ワイン、ビールを購入14。その後、滞在先に戻り数名で宴会が始まった。ワインは赤も白も甘すぎるため、ビールで割って飲むスタイルだ。みんなムスリムにしては、ずいぶんワイルドである。

ムスリム達への質問

 本来ムスリムは酒を飲めないが、「飲んでいるときに悪いことをしている気持ちになるか」と意地悪な質問をしてみた。さっき、酒が好きだと教えてくれた彼は、自分は悪いムスリムだから大丈夫だと言っていた。

 また、インドネシアのイスラム教には、いくつかの宗派があるという話にもなり、代表的な2つを教えてくれた。1つは、インドネシアに元々あったアニミズムと融合した宗派。もう1つが、イスラム教の戒律に厳格な宗派だ。他にもいくつか種類があると言っていたが、一神教のイスラム教に宗派があるのも、アニミズムと融合するというのも、興味深い。

ムスリムの結婚

 それから、もし違う宗教の人を好きになって結婚したい場合はどうするか聞くと、それはそうとう難しいと口をそろえてみんなが言った。悪いムスリムの彼でさえ、それはできないと言っている。お酒は許されても、結婚は難しいようだ。そんなことをすれば、家族から絶縁されるだろうと言っていた。

 結婚の方法には2種類あるらしい。役所に届ける方法と、モスクに届ける方法だ。ムスリムはモスクで結婚するが、お相手の宗教が違う場合に例外的に役所に届けることができるのだろう。イスラム教の結婚は、ムスリム同士でないとできないため、他宗教の人と結婚する場合は改宗してもらう必要がある。新婦の父と、新郎とが結ぶ契約なので、どちらかの家が違う宗教だと成立しないようだ。

 また、この2種類の結婚方法を別の人とすることで、一夫多妻になっている人がいるらしい。悪いムスリムの彼も、そういう人は悪いと笑いながら言っていた。


  1. matahariは、1958年子ども服店として開業。1972年にインドネシア発の近代的な百貨店をオープンした。現在はオンラインショッピングの大手にもなっている。
    参考:matahariウェブサイト ↩︎
  2. オランダ植民地時代の1926年から1928年にかけて建設された。設計を担当したのは、オランダ領東インド(現在のインドネシア)の土木公共事業部に所属していたオランダ人建築家 G.P.J.M. ボルシウス。日本統治時代には日本軍が利用していた。現在は文化施設として利用されている。
    参考:Pos Bloc Surabaya – Surabaya Tourism ↩︎
  3. 展示URL:https://artsubs.co/ ↩︎
  4. ●UMP(月給最低賃金)※知事が出す条例によって決まっている値(2024年)
    ・東ジャワ州のUMP
     IDR 2,165,244(JPY 20,137)
    ・スラバヤ市のUMP
     IDR 4,725,479(JPY 43,947)

    【日当の概算】
    ●UMP(月給最低賃金)÷ 25日(労働日数の平均)=日当
    ・東ジャワ州の日当
     IDR 86,609(JPY 805)
    ・スラバヤ市の日当
     IDR 189019(JPY 1757)
    参考:ジェトロ(日本貿易振興機構) ↩︎
  5. インドネシア独立戦争。1945年から1949年までの4年5か月にわたる戦争。
    参考:Wikipedia(インドネシア独立戦争) ↩︎
  6. 独立運動自体は、1910年代からあった。 ↩︎
  7. 国旗画像
    オランダ国旗 ↩︎
  8. 独立後に日本軍から解放されたオランダ人がホテルヤマト(現ホテルマジャパヒト)にオランダ国旗を掲揚した事件がホテルヤマトフラッグ事件(1945年9月19日)として有名。ホテルオラニエ→ホテルヤマト→ホテルマジャパヒトと名前を変えてきた。参考:Indonesian Independence and the Indonesian Flag(インドネシアの独立とインドネシアの国旗 )  ↩︎
  9. 国旗画像
    インドネシア国旗 ↩︎
  10. 赤と白の旗は、1945年8月17日にスカルノが独立宣言をする以前から、オランダとの闘いの中で時折使用されていたようだ。
    参考:Indonesian Independence and the Indonesian Flag(インドネシアの独立とインドネシアの国旗 ) ↩︎
  11. オラニエ(Oranje)は現在のオランダ王室の称号だ。ここでは、ホテルオラニエと表記したが、ホテルオランジュと読む可能性もあるので、以下は一応調べたことを残しておく。オラニエ(Oranje)という発音はオランダ語だが、英語だとオレンジ(Orange)フランス語だとオランジュ(Orange)になる。これらは、オランジュ公国という、今のフランスにあった独立国が関係している。そこを治めたオラニエ公が、オランダの独立戦争を指揮し、オランダ建国の立役者になったからだ。そして、今でもオランダ代表はオレンジのユニホームを着るようになっている。
    参考:Wikipedia(オレンジ軍団) ↩︎

  12. 民衆を導く自由の女神(1830年)ドラクロワ
    参考:Wikipedia(民衆を導く自由の女神) ↩︎
  13. インドネシア政府の公式統計機関による宗教別人口割合を見ると、イスラム教徒は年々増加傾向にあるようだ。
    参考:インドネシア統計局(BPS) ↩︎
  14. 画像のボトルには、Anggur merah(アングルメラ)と書かれていたので商品名だと思っていたが、Anggurはワイン、merahは赤と言う意味で、赤ワインと書かれている。SINGARAJA(シンガラジャ)ビールは、バリの都市名が付けられている。 ↩︎