南半球に到着!
ジャカルタの空港に到着した。到着ビザというのを取得しなくてはならなかったり、何のためなのか良く分からないQRコードを取得しなくてはならなかったりして苦戦したが、やっと空港の外に出てきた。やはり外は暑い。南半球に来たんだなと実感する。すでに夜中になっていた。それにしても、暑いのに長袖を来ている人が多いのは、なぜなんだろうか。
到着早々トラブル発生
僕の名前を持った人が迎えに来てくれ、ホテルまで連れて行ってくれる手配をしたと聞いていた。こういう迎えられ方は、人生で一度もしたことがないので、少し楽しみにしていたが、誰も迎えが来ていないようだ。空港の外には、名前のカードを持った人が何人か立っていたが、僕の名前は無い。何度か彼らの前を行ったり来たりして確認するが、やはり無い。彼らに尋ねると、お前のホテルの迎えはここには来ないと思うよと言っている。
言葉ができないため、どうしたら良いか分からないので、Wi-Fiを見つけてレジデンスの運営スタッフに連絡した。ホテルシャトルと書かれた看板の指示に従い、シャトルバスの乗り場を探せは良いと言う。確かに看板はあった。しかし、看板の指示に従っても行き止まりになってしまうし、シャトルバスも見当たらない。

みんな自分が知らない道を教えてくれる
飛行場で働く人に尋ねると、看板が指していた方向と逆のほうを指差し、あっちだと言う。それで逆方向に行くと、確かにホテルシャトルと書かれた別の看板があった。そっちの方向へ進んでみたが、やはりどこが乗り場なのかさっぱり分からない。再び別の人に尋ねると、今度は空港の中の2階に上がれと言う。全く別の場所に向かっているような気がして、引き返した。また別の人に尋ねたら、そんなシャトルバスは来ないから、ホテルに直接電話すべきだと言われた。確かに、最後のアドバイスだけは的確だったように思う。
しかし、SIMカードが無いので電話もできない。Wi-Fiが繋がる場所へ移動し、ホテルに電話してもらうよう、レジデンスの運営スタッフに頼んだ。その後、シャトルバスの運転手とメッセージでやり取りし、1時間以上経過してようやく迎えが来た。シャトルバスが来た場所は、看板が指していた方向とは全く違うだけでなく、別のターミナルの前だった。こんなのは、分かるはずが無い。しかし、なんとか無事ホテルに到着。すでに日が変わっていた。日本や韓国とは2時間時差があるので、ホテルには2時頃到着だったと思う。
知らないことを話すということ
レビナスという人が、「語ること」と「語られたこと」という二つの違いについて述べている文章1がある。彼は、語るためには、語り続けなくてはならないと言っている。語り続けることが倫理的なことだと言っていて、僕には何を言っているのか訳が分からなかった。しばらくして、これは、「分からないことを、分からないまま話すこと」が倫理的だと言っているのかもしれないと理解することにした。知っていることを、知っているまま話すことは倫理的ではないと言っているのだと思う2。
語りにくい世界
例えば、僕はパレスチナの問題について何か発言することは、なんとなく難しさを感じる。これは、パレスチナやイスラエルの歴史、宗教、政治模様などについて知識が乏しいため、語りにくいからだ。間違ったことを言うかもしれないので、話しづらいと考えてしまう。考えている途中のことを発言させない空気があるからこそ、話しづらいさを感じる3。これは、戦争や政治、差別、ハラスメントなど、あらゆる分野の語りに影響を与えていると思う。発言しづらい状態が続けば、倫理的ではない世界になりそうだということは理解しやすいのではないか。
間違える続けることと倫理
その点、空港で道を教えてくれた人たちは、当人達も知らない道を、全員が笑顔で教えてくれた。僕はこれに悪意を感じない。結局、誰も本当の道は教えてくれなかったが、とにかく教えてくれようとしたことは確かだ。このコミュニケーションがいったい何だったんだろうかと考えた。もしかして、これが、「分からないことを分からないまま話す」ということなのではないか。
- レヴィナスは、倫理を第一哲学として位置づけ、他者との関係に着目した。「語ること」と「語られたこと」も、これと関係している。語ることは、他者に向けて語りかけること。語られたことは、概念や内容、あるいはすでに語られた「もの」を指している。語られた「もの」に囚われ過ぎたため、他者の声を聞くことを忘れたことがきっかけで、ホロコーストなどが起きたと考えている。私達が他者と出会うとき、責任を負い、それから逃れることはできない。他者の持つ悩み等に答え寄りそうためには、語り続ける必要がある。他者への責任や応答については、日常的な悩みでなく、戦争で命を落とす危険性がある人々を想定すると考えやすいかもしれない。
参考:存在の彼方ヘ (講談社学術文庫 1383) 文庫 – 1999/7/9
エマニュエル・レヴィナス (著), 合田 正人 (翻訳)
https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000150984 ↩︎ - レビィナスの考える倫理では、他者への責任は、僕たちが一方的に配慮し続けなくてはならないというもので、配慮のためには語り続けなくてはならない。しかし、一方的な配慮で倫理的な社会になるだろうか。語り続けたものを聞き続けることも同じように配慮が必要になるのではないかと僕は思う。一方的に責任を感じることではなく、倫理とは双方が歩みよる時間のことを言うのではないか。 ↩︎
- 世界の多くの人々が黙って見ていたと、ガザの人々は思っているだろう。ユダヤ人の歴史は、古代にまで遡る必要があり、現在までに何度も弾圧を受けてきた過去がある。イスラエルの攻撃を容認する国があるのは、このような過去に対する後ろめたさから来ているのかもしれない。歴史・政治・宗教・経済と、多様な問題が含まれているだけに、声を上げることが難しかったと考えることもできる。しかし、だからと言って、何も考えないというわけにはいかない。
参考:朝日新聞 2024年10月7日「世界は僕たちが死ぬのを見ていただけ」 だれも止めぬガザ侵攻1年 ↩︎