
13時過ぎ。インポーと昼食をとった後、海辺のカフェへ。昨日と違う位置に船が移動している。きっと漁に出たんだなと思った。カフェの前では、今日も輪になって何かを話をしている。昨日、インポーのバイクの後ろに乗っているとき、街の様子を観察したが、この村近辺では、カフェだけでなくいたるところで輪をつくって話をしていた。
玄関はテラス

この村の近辺にある住居のデザインは、玄関先が広くタイル張りになっていることが特徴だ。あるいは中庭のような場所が設けられている場合もある。そういう場所で、数名が寝そべって喋っている姿をよく見かける。タイルの上を箒で掃除している姿をよく見かけるので、どこの玄関先も清潔に保たれている。日本の都心にあるアパートの玄関とは違い、玄関先はテラスになっている。広々とした玄関先で輪になって談笑している姿は、ゆったりとした時間を過ごしているように見え、とても優雅だ。モスクの入り口にも広い空間があるので、これはモスクから影響を受けているデザインなのかもしれないと思った。
カフェでは今日も、大きな声で楽しそうに喋っていたので何の話だったのか後から聞いてみた。祭りをすることを予め警察へ届け出なければならないという話だったようだ。その際、警察官にお金を払う必要があるらしい。例えば、自転車等を盗まれて見つかった場合も、警察に受け取りに行ったとき警察官にお金を払って引き取るそうで、インポーはそのような金は警官のポケットマネーになると言っていた。そのことに対する不満を話し合っていたようだ。
獣医との出会い
カフェにいると、いろんな人が来る。今日は、獣医の人と出会った。その彼もPrewanganの関係者だと言う。過去にPrewanganでワークショップを開催したことがあるという紹介があった。
インポーが僕の事を紹介してくれ、鶏のことを知りたがっているという説明もしてくれた。獣医の彼は、鶏インフルエンザや口蹄疫についての専門家だそうだ。難しい英単語もたくさん使って説明してくれた。この村には、牛も鶏もたくさんいるが、伝染病について意識していなかった。過去には牛や鶏が伝染病にかかりたくさん死んだこともあったらしい。今までニュースでは聞くことがあったが、この村の人達にとっては切実な問題だっただろう。貴重な話が聞けた。
鶏の放し飼いと文化

インドネシアでは、年に2回鶏インフルエンザが流行する可能性がある季節がある。乾季から雨季、雨季から乾季に変わる季節の変わり目の2回だ。ちょうど今は雨季に差し掛かっており、鶏インフルエンザの時期だと言っていた。この村の鶏には、飼育小屋が無い。伝統的な放し飼いで育てているため、糞などをあちこちにすることが問題になるそうだ。ウィルスを持った鶏の糞が媒介となって鳥インフルエンザが広まるからだそうだ。この村のような飼育方法はインドネシアでも見られなくなってきているが、伝染病の危険性があるとしても、文化と結びついているため仕方がないと彼は言った。鶏の飼育方法が文化と結びついているという意見は、僕の観察によるものと同じ意見だ。
鳥インフルエンザワクチンと殺処分
ワクチンを打つことの難しさや、政府がワクチンのための助成金を出していたことなども聞いた。彼の話ぶりでは、この村のほとんどの鶏達はワクチンを打っていない。ワクチンを使うには、点眼や注射など、いくつかの工程を踏まなければならず手間がかかりすぎるからだ。そのため、政府が助成しても普及しなかったと言っていた。
ワクチンが普及しない理由は他にもある。放し飼いの鶏達を捕まえることが容易ではないことや、既にウィルスを媒介していれば、ワクチンを打っても意味がないこと、村全体の鶏に打たなければ意味がないことも挙げられた。日本では一匹でも鶏インフルエンザにかかれば全て処分される。そのことは彼もよく知っていたが、インドネシアでは処分されることはないそうだ。インポーが言うには、放っておいても何匹かは死に、何匹かは生き残るとのこと。
口蹄疫とDIYワクチン
この村では口蹄疫も流行ったことがある。その時も鶏と同じように殺処分をしていない。牛のオーナーは、牛の体調がよくなるよう最後まで面倒を見たそうだ。当時は口蹄疫の知識が無かったために、DIY的な精神で、できる限りのケアをしたのだろう。中には、ガソリンを足に塗ったら治ったという話など、ラジカルな取り組みもあったようだ。原因や治療法が分からなくても、試してみればもしかしたら何かは効くかもしれないという精神は、DIYワクチン1だねと言った。牛たちも何匹かは死に、何匹かは回復したそうだ。
このようなことを経験してきた人達が、ワクチンや殺処分に意味が無いと思ってしまうことは分かる気がする。生き延びた数匹はウィルスへの抗体を得て、身体を環境に合わせて強くしたに違いない。
薬づくりのワークショップ
獣医の彼とPrewanganとで開催したと言っていたワークショップは、口蹄疫による被害を受けて行われたものだったようだ。動物がケガした時に塗る薬を、この村で手に入る物だけを使って作るワークショップだ。このことから、地域の問題解決になるワークショップや教育活動もPrewanganの活動に含まれていることが分かる。Prewanganは地域と密着しているため、地域の課題は、彼らや彼らの仲間の課題でもある。日本の田舎にある町内会と似た役割をPrewanganは果たしている可能性がある。
DIY精神をみんな持っている




この村ではDIY的な精神を全ての人が持っているように思われる。昨日も電線が家の屋根に引っかかっているのを取り除くために電信柱を立てていた。一人の大人が手際よく竹を組んで支柱を作り、子ども達に声をかけて手伝わせていた。ものの数分で、あっという間にできてしまっていた。そういう大人の姿を見て子ども達も、DIY精神を学んでいるのだろう。彼らはアーティストではないかもしれないが、生きる力に溢れており、アーティストが本来持つべき、生活を豊かにする知識や技術や精神を持っている。
PrewanganのコンセプトにもDIYが含まれている。Prewanganのメンバーは全員がアーティストというわけではない。しかし、みんなDIY精神があり、アーティスト的な性質を持っている。そういう人達を見ていると、アートと生活との境目が分からなくなることがある。それで、あなたのアートとこの村の人達の生活は、どう違うと思うかとインポーに聞いてみた。インポーが答える前に、あまり違いが無いように思うと僕が言ってしまったため、彼の正確な意見は聞けなかったが、彼も同意していた。
信仰はアート
僕は自分がしてきたことがアートかどうかはあまり気にしてこなかった。しかし同時に、家庭菜園やバーベキュー、友との語らい、この滞在記、あるいは日々の生活等、通常はアートとは思われていないことも、全てアートのつもりでやってきている。この矛盾は、僕が、美術のことを芸術学部等で専門的に学んだわけではないので、DIY的に自ら編み出さなければならないという意識が働いているからだと思う。
だから、僕の作品が、ただのゴミと思われかねないことを知っている。しかし、この無駄に思える部分にこそ僕のアートが現れてくると信じている。インポーに、君の信仰は何かと聞かれて、アートと答えたことがあった。ここ数年は絶望的な気持ちになることが時々あったが、こんなことを言えるようになっているということは、少し上向きに回復しているようだ。
- コロナワクチンが製造される前には、自らの身体を使って人体実験をする医者がいた。これをDIYワクチンとして報道されているが、倫理的な問題が指摘されている。しかし、過去の医療でも医者が自らを人体実験することで発展してきた分野がある。この滞在記では、口蹄疫についてなので、直接関連していないが、同じワードを使っているためここで触れた。https://www.scientificamerican.com/article/do-it-yourself-vaccines-for-covid-19/ ↩︎