明日の飛行機で韓国に帰るため、長距離バスでスラバヤへ戻る。
バスの止め方世界一
ソボントロ村にはバス停が無い。バスが到着する時間も分からないため、ただ道でバスが来るのを待つしかなかった。バスは手を振って止めなければならず、たまに通りかかるバスも、運転手が気が付かなければ通り過ぎていく。交通量が多く片側二車線あるため、止めることが難しく結局1時間半たった頃に、ようやくバスを捕まえた。

しかし、待ち時間が長かったことは悪いことばかりでは無かった。インポーやご家族、Prewanganメンバー、子ども達等、何人かと別れの挨拶をすることができたからだ。その間、何度もバスを見逃していたが、インポー達でもバスを止めることができずにいた。1時間以上経過しているので、こんな方法ではいつまでも乗れないのではないかと思った。
結局、たまたま通りかかった今日初めて会った人が、バスを止めてくれ乗ることができたが、彼のバスの止め方は上手過ぎた。大きな声を出しながら手を振り、道の真ん中まで出て行った。僕には、半強制的にバスを止めたように見えた。この道路は比較的交通量が多いが、それよりも、車のスピードが非常に速い。しかも、その時はちょうど豪雨が降っており、視界が悪い中、手際よく車と車の間に入っていく命知らずな姿には、驚いた。こうまでしないと止めることができないバスに、どうやって乗るというのか。彼のバスを止めさせる技術は、たぶん世界一だと思う。
血の道と呼ばれている国道1号線

画像:パブリックドメイン(出典:Wikimedia Commons)
ソボントロ村の前を通っている国道1号線はジャワ島を横断している長い道だ。ジャカルタやスラバヤまで繋がっている。オランダによる植民地時代に作られた道だ。道を開くため、多くのインドネシア人に強制労働させた歴史が残っている。無給で働かされ大勢の人が亡くなっているため、国道1号線は「血の道」と呼ばれている1。インポーは、そのことを今でも覚えていることのように話してくれたことがあった。その歴史を考えれば、バスの車内から見る景色は、来た時の車内とは違って見えるだろう。

しかし、車内の冷房が効きすぎなのと、乗車前に雨でびしょ濡れになっていたため、震えるほど寒く、外の景色を楽しんでいられなかった。やはり言われた通りに、着替えておくべきだったと後悔するばかりの約4時間であった。
一言では表せない経験
車中では、ソボントロ村のことなどを考えていた。僕は毎日、滞在記録を書いてきたが、いろいろなことがあったために書ききれていない。これだけ書いてきたのにも関わらず、僕が興味を持った鶏や玄関、カフェから見える景色、バナナと山羊がいる景色、信仰や人々の生活等について、ほとんど触れてこれていないないような気持ちになってきた。
滞在中に返信できていなかった友人にメッセージをすると、滞在の感想を聞かれたが、全体的な感想を一言で表そうとすると、どう答えても欠けてしまいそうで、しばらくバスの中で考えていた。
今日でちょうど3週間ジャワ島に滞在している。素晴らしい経験になった。短い期間だが、通常は1週間でできる経験の量ではなかった。僕はすでに2年以上も韓国に住んでいるが、この1ヵ月はそれを超える情報量と出会いがあったのではないかとさえ思う。これも全て、インポーやPrewanganの仲間たち、ソボントロ村の人々のおかげだ。
一言で表してみる
おそらく、自宅に戻ったときに違和感と寂しさを呼び起こさせる最初の要因は、アザーンが聞こえないことかもしれないと思う。そう友人に返信した。
ソボントロ村のアザーンからは、お年寄りや女性、子どもなど、いろいろな声が聞こえてくる。アザーンはあちこちから聞こえてくるので、それらの声が混ざり重なって村中に響き渡る。1日に何度も聞いていた、彼らの歌音が聞こえなくなるのは寂しくなるだろう。それに、イスラム教の1日5回の礼拝は、僕の生活にもリズムを与えていた。それは、規則正しくない生活を送っていた僕にとって、けっこう心地よいものだったのだ。
お祈りの時間
僕はお祈りをしていたわけではない。しかし、毎日夕方のマグリッドタイムを知らせるアザーンと共に帰って行くインポー達の姿を見送っていると、お祈りの時間が始まるのだなと実感するようになっていた。お祈りの時間に、一人になったスタジオでは、独特の雰囲気が流れてくる。村中からお祈りの雰囲気を感じ、その雰囲気はスタジオの中にまで入ってきた。その時間に、僕は毎日滞在記を付けていたため、書いている時間が、僕にとってのお祈りの時間だったのではないかと思えてきた。
- 1808年から1811年に建設され、無給の強制労働で数千名の命が奪われた。約1000キロある。グレート・ポスト・ロード(インドネシア名:Jalan Raya Pos、オランダ語名:De Grote Postweg)という呼び方が一般的。また、得にこのグレート・ポスト・ロードが象徴的な道路のため、この道を「血の道(Jalan Darah)」と呼ぶが、インドネシアの幹線道路は多くが植民地時代に建設されている。また、地図を見ると、グレート・ポスト・ロードは、国道1号線だけではなく1号線から分岐する複数の国道を指していることが分かる。
参考:Wikipedia(Great Post Road) ↩︎